佐屋代官所あと

2023.2.9 (42) 佐屋路 - 佐屋代官所あと 1940-1480

佐屋路(さやじ)佐屋宿(さやじゅく)は佐屋三里のわたしのてまえに佐屋代官所あとがあって、りっぱないしぶみにつぎのようにかいてある。

佐屋代官所

  • わが佐屋は其の昔1615年4月家康が大坂夏の陣に此処から船出し大勝した徳川方吉祥の地。藩祖義直もこの事を嘉し1634年佐屋海道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、更に1653年船番所を置くに及んで佐屋は天下に知られるに至った。其のため1695年奉行所が次で1781年所付代官制実施の時にも最初の代官所となり海東海西郡中の109ヶ村7万4千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ明治廃駅迠、寛永文久と二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。
  • 其后駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物も其れを知る人もない。
  • われわれは今その代官所址に在りし日の栄光を偲びつつ其の事を石に刻し永く后世に伝え語り継ぐことの資とする。
    2023.2.9 (43) 佐屋路 - 佐屋代官所あとのいしぶみ 2420-1820

1985年10月

題■撰文謹書
加藤安雄

要約するとこういうことか。
「わが佐屋は江戸時代からしゅくばまちとして天下にしられ、海部郡(あまぐん)の中心として民政と治安の任務をはたしてきた。さらに幕末2度の将軍上洛や明治天皇の巡幸にもやくめをはたした。ところが全国の交通の大動脈もかわって佐屋川もなくなったいま、佐屋にはいきおいのさかんなときをかたるもんもなく、ほのことをしるひともおらん。ここにわれわれはむかしの栄光をいしにきざんでながく后世にかたりつぐ。」
いや、佐屋愛にあふれた文章だ。

〔2023年2月ここのか訪問〕


【佐屋路を埋田おいわけから佐屋三里のわたしまで】