「機業と女性のちから」

あいち国際芸術祭の会場のひとつ一宮市役所には「あいちなう」が展示してあるだけど、ほかに愛知県内各地の繊維産業の歴史についての説明がきもいくつかある。ほのうちのひとつに「機業と女性のちから」って題して、三岸節子の実家のおりもんこうばのはなしがある。

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機業(きぎょう)と女性のちから

洋画家三岸節子(1905~1999)のせいたんち、中島郡小信中島村(このぶなかしまむら/いまの一宮市)をふくむ尾張西部一帯は、江戸時代からおりもんの生産がさかんで、なかでもじもとのおおじぬしでおりもんぎょうをいとなんどった節子の実家は、レンガづくりののこぎりやねこうばを所有する大規模なこうばでした。ところが、1920年、戦后恐慌のあおりをうけて会社はかたむき、一家が没落へとむかうなか、15才の節子は「一家のくるしみをなにものかになってとりかえそう」と洋画家になることをつよく決意。晩年、節子は当時をふりかえって、「ただいま90才になったわたしがながい人生とおしてたたかってきたのは、ただただすべてがここにあったからでございます」とかたっております。女子美術学校(いまの女子美術大学)卒業后すぐに結婚した画家三岸好太郎(1903~1934)の放蕩(ほうとう)と早逝(そうせい)、戦争というたびかさなる苦難にあってもははとして、画家としてあゆみをとめんかった節子。その原動力には、少女時代にちかった「なにものかになる」という、逆境をはねのけるまでのつよい決意があったのでしょう。
〔写真=1950年代前半の三岸節子

野田路子(一宮市三岸節子記念美術館)

節子が少女時代をすごした明治から大正ごろの一宮近辺では、まえがりきんをうけとったおやが12才から15才のむすめをはたやにはたらきにだす年季奉公が、江戸時代からひきつづきおこなわれておりました。ちいさなはたやのおおいこの地域では、やといぬし一家と職工は家族同然のくらしをしており、おちゃや裁縫などはなよめ修行をさせるのもやといぬしのやくめという慣習がありました。いっぽうで、14時間から16時間の長時間労働にくわえ、こうばによってはやといぬしからひどい暴力をうけることがあり、しばしば逃亡するものもありました。1945年代のがちゃまんとよばれる好況をへて、1955年代には九州、東北などからの集団就職がおこなわれました。「きんのたまご」とよばれたわかもんたちは、5時から13時半のはやばんと、13時半から22時のおそばんで交代にはたらき、あき時間に登校して保育の資格などを取得し、休日には映画やかいもんにでかけました。一宮市役所にしがわにいまもたたずむおりひめ像(野水信作/1959年/一宮駅みなみがわより移設)は、はなやかなりし往時のすがたをしのばせます。
〔写真=1960年ごろののこぎりやねこうばと女工たち/鈴木貴詩氏提供〕

成河端子(一宮市博物館)

2022.9.6 (8) あいちなう - 説明がき(機業と女性のちから) 1500-1450

機業([0]きぎょう)
絹、木綿その他の布を織る事業。
はたおりの仕事をすること。
コトバンク

〔2022年9月むいか訪問〕