人造石発見者服部長七の葭池暗渠 - 明治用水土地改良区

明治用水通水120年記念誌
明治用水、120年のながれ、ほいで21世紀へ」

1999年4月18日発行
明治用水土地改良区

人造石発見者服部長七の葭池暗渠 - 明治用水探訪
(No.25 1991年5月ついたち発行)
  • 豊田市(とよだし)水源町(すいげんちょう)の明治用水頭首工から矢作川のみずがひきいれられ、およそ4キロながれると、明治用水本流と東名高速道路が交差します。
  • ここはふかいたにで、いまでは近代土木工学の技術を結集してたかい高架橋で高速道路をいっきにわたっておりますけど、明治用水が開削された当時は難工事で、碧海(へっかい)の大地へわたるゆいつのもりつち部分で、ながさは218メートル、たかさ7.3メートル、うえはば3.3メートル、したはば5.5メートルもあって、開削后もいくどとなく災害にみまわれました。ほこで、明治用水では安定的にみずを確保し台地の水田をさらに開発するため、矢作川の水源堰堤(すいげんえんてい)とこのもりつち部分の暗渠(あんきょ)を当時先進的な技術をもっとった服部長七(はっとりちょうひち)に工事をうけおわせました。明治用水土地改良区の事務所のふるい書類のなかにこの人造石樋管工事請負契約書があります。ばしょは碧海郡寿恵野村(すえのむら)大字鴛鴨(おしかも)字上葭池(かみよしいけ)の明治用水本流通り人造石悪水吐伏越樋管工事ってよめます。契約証書の末尾には碧海郡新川町(しんかわちょう)服部長七の署名があって、1899年11月13日ってあります。工事設計資料も保存されており、工事費が5,301円65銭1厘としるされております。設計書の内容をみますと、材料もわりいし、石灰、たねつち、セメントってしるされ、人夫賃もふつうのひとで25銭、大工(だいく)や石工(いしく/せっこう)で42銭から48銭ってしるされております。
  • ほじゃ、現在のこっとるこの人造石工法の暗渠をご紹介しましょう。
  • まず人造石工法とは、通称「たたき」ともいわれとって、石灰とたねつちとをねりあげて、このなかに自然石やわりいしをうめこんだもんで、大規模な土木構築物が形成しております。明治用水でもふるい水路にようつかわれとったいしづみ護岸にみられるねりこみ工法のように、いしといしが接触しとらんことが特色です。人造石っていう名称は、1881年、東京上野でひらかれた第2回内国勧業博覧会の準備にさいして、服部長七は会場内のゆかや噴水などのたたき工事をうけおいました。このとき視察にきた農商務省やとい外人技師がかれに「この人造石はなにでつくってあるか」ってたずねたのがはじめて、これ以降かれはじぶんのつくった「たたき」工作物を人造石ってよぶようになったっていわれております。
  • ほじゃ現地にのこっとる暗渠をみてみよまい。
    2021.9.1 明治用水資料 (4-1) 人造石発見者服部長七の葭池暗渠 390-290
    △ 葭池暗渠(家下川/豊田市鴛鴨町)
  • この暗渠のながさは39.5メートル、たかさ2.5メートル、はば3.3メートルの半円形のアーチ状を呈しております。下流がわ暗渠いりぐちには銘板があって、葭池樋門、1900年3月、服部長七ってよめます。写真でもわかるように石造半円のみごとなアーチづくりです。内部は全面はりいし構造の人造石でつくられ、100年ちかい歳月をへてもびくともせんでのこっております。
  • 天井には石灰のつららがみれます。
  • この暗渠地点までの家下川(やしたがわ)は、愛知県土木事務所のてで改修され、上流はふるいかわのままになっております。
  • しかし、この家下川沿線もどんどん都市化されて、また、大規模なほじょう整備事業も進行しており、これにあわせて家下川も改修される予定です。
  • この河川改修にあわせて、この明治の貴重な土木工作物「人造石の発見者服部長七のつくった葭池暗渠」もすがたをけさあってしております。
    2021.9.1 明治用水資料 (4) 人造石発見者服部長七の葭池暗渠 1170-1840

2021年9月ついたち、水のかんきょう学習館を訪問。明治用水土地改良区OBの田中さん、館員の織田さんから葭池樋門(よしいけひもん)についての説明をうけるなかで、この資料もいただいた。