明智城址説明がき

明智城は桔梗坂をちょこっとのぼっていったみぎがわに、明智城址説明がきがある。大手門よりてまえ。

2020.8.15 (55) 明智城址説明がき 2450-1880

明智城

可児市は、戦国時代の悲運の武将「明智光秀」の生誕の地である。1342年(※ 1345年ってかいてあるのはまちがい)に美濃源氏土岐下野守頼兼(ときしもつけのかみよりかね)が名字を「明智」とあらためて、初代明智家棟梁となり、明智瀬田の当地に明智城を築城した。

以来、およそ215年間、ここにやまじろをかまえとったが、1556年に当時の美濃のくにの支配者、斎藤道三とほのこ義竜のあらそいにまきこまれ、義竜にせめられて落城。さいごの城主であった光秀は、しろの脱出に成功して明智家を再興したが、ここへはもどらず、かれの死后も、ふたたびここに築城されることなく明治維新をむかえた。

しろは自然の地形をうまく利用した典型的な中世のやまじろで、このやまの中央主峰、標高175メートルの頂上に本丸をきずき、ここを中心として、いくつかのべつのみねに小城塞、みはり台、城郭施設などを配置させてあったとかんがえられる。

居館あとには「光秀うぶゆのいど」と伝承されとるいどがあり、当時使用されとった土器破片が出土しとる。また、出丸付近には落城のさいの戦没者をほうむった「七ツ塚」がある。

1973年には一族の供養塔「六親眷属幽魂塔(ろくしんけんぞくゆうこんとう)」が発見されとる。

可児市

2020.8.15 (55-1) 明智城址めぐりの地図 710-860

〔2020年8月15日訪問〕