近鉄名古屋線阿倉川2連アーチのすぐわきに羽津城あとがあって、説明がきにつぎのようにかいてある。
四日市市指定記念物(史跡)羽津城跡
このあたりは字名を城山という。羽津城があったことにより命名されたのであろう。1711年4月の「羽津村指出帳」によると、「城址西東38間、北南34間、城主赤堀右京」とある。
築城したのは藤原盛宗。彼は、藤原秀郷(俗称・俵藤太(たわらのとうた))の子孫で、応永年間(1394年から1428年まで)に、上野国赤堀庄から当地に移って赤堀城を築いた藤原景信の長男だった。景信の次男は赤堀城を継ぎ、三男忠秀は浜田に城を構え、盛宗とともに赤堀三家といわれて、北勢地方で勢力を誇った。
羽津城は、盛宗の后、宗久、宗善、宗慶、宗昌と続いたが、1572年、6代近宗の時に織田信長に滅ぼされた。羽津山町の正法寺には、6代の過去帳がある。
現在、城跡と称しておるところは、昔の本丸のあとで、土塁が残っておる。
1996年10月
あいまいな記述で意味がわからんとこがおおいけど、要は「室町時代にできたしろで、6代城主のときの1572年、織田信長にほろぼされた」ってことらしい。
〔2020年6月18日訪問〕
(さんこう)
- 羽津城跡|四日市市役所
- 15世紀后半、この地を治める田原盛宗(たはらもりむね)によって築かれたのが羽津城です。田原氏は、もともと上野国赤堀庄(こうづけのくにあかほりのしょう)に住んでいましたが応永年間(1394~1428)に景信(かげのぶ)が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたとされます。景信は、長男の盛宗(もりむね)を羽津に、次男の秀宗(ひでむね)を赤堀に、そして三男の忠秀を浜田に配しました。世にいう赤堀三家です。
- 羽津城は、盛宗から近宗まで六代の主の居城となりましたが、近宗が謀殺されたのを機に合戦に及びついに開城、その後、羽柴秀吉と織田信雄の合戦后の和睦により廃城となりました。
- 現在、城山公園に石碑が立ち、本丸跡の保塁と内堀の一部が残り、かつての城館の面影をわずかに残しております。