参道いりぐちいしぶみの由緒がき
定
1.車馬を乗入れる事
1.魚鳥を捕る事
1.竹木草花を伐採する事
其他境内に於いて神社の尊厳を冒涜する一切の行為右禁止する
和志取神社社務所
由緒
本社祭神五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申す|人皇12代景行天皇の皇子にして勅を奉じて三河国に至り大任主等を討って最初に此の地方を治め給ふ|后遂に此の地に薨去ましまして和志山の地に陵墓を定め給ひ神霊を祀りて和志取神社と称す|其の子孫永く此の地方に栄えませしかば西三河地方の多くの人は命の御血縁につながるが故に本神社は当地方の大氏神なり|尚延喜式内の旧官社にして三河国内神名帳115座の筆頭にのり歴代領主の崇敬殊に篤く祈年新嘗の特使を遣わし祭典の費用を助成し給ふ
1941年4月18日和志山御陵治定になり勅使を遣わし給ふ|次いで1946年1月10日本神社は県社に列せらる
以上
岡崎市西本郷町御立
和志取神社
せわがかりのおじさんがくれた資料
和志取神社
社格:7等級、旧県社
鎮座地:岡崎市西本郷町字御立4番地
例祭日:10月12日
由緒:社伝に、長谷部神社また本郷大明社とも称す。継体天皇即位の年に初めて祀るという、「旧事記」に五十狭城入彦皇子は景行天皇の皇子で三河の長谷直の祖なり、皇子の墓は和志山に治定あり御立という、皇子裔孫三河に栄え、御使連、御使朝臣、長谷部直に、別れた。1648年の検地帳に御立とのる。幾多の挙証により、「延喜式神名帳」碧海郡6座の内和志取神社と1946年1月10日付を以て当神社由緒顕著にして従来の県社昇格内規に徴して県社に該当するものと認むと、神祇院考証課長鳥羽正雄より内翰があった。之より前1914年12月28日郷社に列格し、内務省官吏人岸上安敬も延喜式内社と認められた。
社殿:
本殿、流造=6.00坪
幣殿=8.00坪
拝殿=6.00坪
社務所=15.00坪
神饌所=4.00坪
神楽殿=6.00坪
境内坪数:2,207.00坪
氏子数:84戸
境内末社と祭神:
御鍬社=豊受比売命
稲荷社=保食命
神宮社=水平神
社口社=石上神
天王社=和志大王
宮司:神谷知仁
祢宜:
氏子総代:6名
年中行事
1月1日:新年祭
2月18日:祈年祭
4月9日:春季祭
10月12日:例祭
11月23日:新嘗祭、勤労感謝祭
毎月12日:月次祭
各祝日祭はその都度
〔2020年5月12日訪問〕