宮宿は裁断橋の銘文 - 2019年10月31日

宮宿は裁断橋の擬宝珠に銘文がある。2019年10月31日、東海道をあるいとるとちゅうでみてきた。

原文

2019.10.31 (20) 裁断橋 - 擬宝珠の銘文 2000-1500

むかってひだりの擬宝珠に原文。

てんしやう十八ねん二月十八日おだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつ給へ、いつがんせいしゆんと、后のよの又のちまで、此かきつけを見る人、念仏申給へや、卅三年のくやう也
2019.10.31 (20-2) 裁断橋 - 擬宝珠の銘文 1980-1500 2019.10.31 (20-1) 裁断橋 - 擬宝珠の銘文 2000-1500

解説

2019.10.31 (21) 裁断橋 - 擬宝珠の銘文の解説 2000-1500

むかってみぎの擬宝珠に解説。

熱田裁断橋擬宝珠銘文解説
天正18年(1590年)2月18日に小田原への御陣、堀尾金助と申す18になりたる子をたたせてより、またふためともみざるかなしさのあまりに、いまこの橋をかけるなり、ははの身には落涙ともなり、即身成仏し給え
逸岩世俊と后の世のまたのちまで、このかきつけをみるひとは、念仏申し給えや、33年の供養なり
2019.10.31 (21-2) 裁断橋 - 擬宝珠の銘文の解説 1990-1500 2019.10.31 (21-1) 裁断橋 - 擬宝珠の銘文の解説 2000-1500

裁断経

2019.10.31 (19) 宮宿 - 裁断橋おじぞうさん 1780-1350

裁断橋のわきのおじぞうさんにおまいりするひとがおった。


(さんこう)

  • 裁断橋擬宝珠(ぎぼし)|名古屋市博物館
    • 1622年、この橋の架け替えを行った女性がおる。堀尾金助の母だ。金助は尾張国丹羽郡御供所村(ごくしょむら/愛知県丹羽郡大口町)の土豪出身で豊臣秀吉配下の武将として活躍した堀尾吉晴の一族(長子、従兄弟などの説があるが不詳)。1590年の小田原城の北条攻めに18才で従軍したが戦場で病死したと言われている。これを悲しんだ母は、金助の菩提を弔うため、没后まもなく第1回の架け替えを行っている。その后、金助の33回忌を迎えるにあたり、再度の架け替えを行った。これが1622年のことで、この時に擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた銘文が、わが国屈指の名文として知られている。4基の擬宝珠の内、3基には漢文の銘(ほぼ同文)、1基にはかな書きの銘文が刻まれているが、時代を超え、人々の涙を誘ってやまないのはこちらの方だ。
    • かな銘文
      「てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也」
    • 書き下し文
      天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、后の世の又后まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也」
  • 裁断橋 - Wikipedia
    • 銘文
      この銘文は日本女性三名文のひとつにかぞえられている。
      「てんしやう十八ねん二月十八日おだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつ給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人、念仏申給へや、卅三年のくやう也」