宮宿は裁断橋の擬宝珠に銘文がある。2019年10月31日、東海道をあるいとるとちゅうでみてきた。
原文
むかってひだりの擬宝珠に原文。
てんしやう十八ねん二月十八日おだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつ給へ、いつがんせいしゆんと、后のよの又のちまで、此かきつけを見る人、念仏申給へや、卅三年のくやう也
解説
むかってみぎの擬宝珠に解説。
熱田裁断橋擬宝珠銘文解説
天正18年(1590年)2月18日に小田原への御陣、堀尾金助と申す18になりたる子をたたせてより、またふためともみざるかなしさのあまりに、いまこの橋をかけるなり、ははの身には落涙ともなり、即身成仏し給え
逸岩世俊と后の世のまたのちまで、このかきつけをみるひとは、念仏申し給えや、33年の供養なり
裁断経
裁断橋のわきのおじぞうさんにおまいりするひとがおった。
(さんこう)
- 裁断橋擬宝珠(ぎぼし)|名古屋市博物館
- 1622年、この橋の架け替えを行った女性がおる。堀尾金助の母だ。金助は尾張国丹羽郡御供所村(ごくしょむら/愛知県丹羽郡大口町)の土豪出身で豊臣秀吉配下の武将として活躍した堀尾吉晴の一族(長子、従兄弟などの説があるが不詳)。1590年の小田原城の北条攻めに18才で従軍したが戦場で病死したと言われている。これを悲しんだ母は、金助の菩提を弔うため、没后まもなく第1回の架け替えを行っている。その后、金助の33回忌を迎えるにあたり、再度の架け替えを行った。これが1622年のことで、この時に擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた銘文が、わが国屈指の名文として知られている。4基の擬宝珠の内、3基には漢文の銘(ほぼ同文)、1基にはかな書きの銘文が刻まれているが、時代を超え、人々の涙を誘ってやまないのはこちらの方だ。
- かな銘文
「てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也」 - 書き下し文
「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、后の世の又后まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也」
- 裁断橋 - Wikipedia
- 銘文
この銘文は日本女性三名文のひとつにかぞえられている。
「てんしやう十八ねん二月十八日おだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつ給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人、念仏申給へや、卅三年のくやう也」
- 銘文