浄瑠璃姫と義経の画像

2019.10.9 (20) 浄瑠璃姫画像(浄瑠璃寺) 1010-1810

2019年10月ここのか、岡崎市美術博物館にいって、『再発見!岡崎の文化財』っていう図録にのっとる浄瑠璃姫と義経の画像をみてきた。画像はもともと岡崎の浄瑠璃寺あったもんが岡崎市美術館にうつされて保管されとるだけど、非公開のあつかいになっとって、ほれがこの図録にのるかたちで間接的に公開されとるだ。

◇            ◇

2019.10.9 (18) 『再発見!岡崎の文化財』 - 浄瑠璃姫伝説と岡崎 1040-1300
浄瑠璃姫伝説と岡崎
矢作の長者のむすめ浄瑠璃姫と源義経の悲恋をえがいた浄瑠璃姫ものがたりは、かたりもんとして盛行し、繰り芝居*1や三味線にあわせてふしづけされおおくの民衆にしたしまれた。ほの伝説のもとは東海道すじにおおくのこる遊女と貴公子の悲恋物語ってかんがえれるけど、ほの舞台ってされた岡崎にはいくつかの浄瑠璃姫に関する伝説地をうんだ。明大寺村の成就院(じょうじゅいん)(吹矢町)、岡崎城内の浄瑠璃寺(康生通西)、矢作の誓願寺などである。成就院は、もとは浄瑠璃姫の侍女*2冷泉(れいぜい)がひめの菩提をとむらうためにいおりをむすんだ地ってされるけど、このてらは浄瑠璃姫の600回忌にさいし1781年には開帳をおこない追善供養をおこなった。当時、岡崎の地に滞在しとったともかんがえれる菅江真澄(すがえますみ)も「浄瑠璃姫六百回忌追善詩歌連緋序」*3って題する成就院開帳の引札(ひきふだ)をしるしとる。また浄瑠璃寺でも浄瑠璃姫と義経の画像を600回忌に表装をおこなっとるけど、開帳のおりにはこれをかかげて参詣者におがませて浄瑠璃姫を宣伝した。

2019.10.9 (19) 源義経画像(浄瑠璃寺) 910-1730
139.源義経画像(康生通西 - 浄瑠璃寺
浄瑠璃寺の「瑠璃光山安西寺略記」によると、本像は奥州平泉達谷窟(たっこくのいわや)*4にあった義経自筆の像*5で、1612年10月ようか大道士が岡崎城にもちかえったもんで、城主の本多伊勢守にあげられ、さらに浄瑠璃寺に下付されたもんっていう。江戸前期の作品ってみれる。

2019.10.9 (20) 浄瑠璃姫画像(浄瑠璃寺) 1010-1810
140.浄瑠璃姫画像(康生通西 - 浄瑠璃寺
浄瑠璃寺の記録によると、本像は1650年4月に表具をおこない、義経像とともにおさめおいたもんっていう。義経像とともにうらがきに「天明二寅三月、御表具師岡崎材木町本間要助」ってあり、浄瑠璃姫600回忌に表装しなおされたことがしれる。江戸前期の作品。

◇            ◇

う~ん、これが浄瑠璃姫600回忌の1782年に表装しなおされたもんだってことはわかっただけど、もともとの画像が、さいしょに表装されたときにかかれたもんなのか、ほれよりまえにかかれたもんなのかがわからん。


(さんこう)

*1:絡繰り芝居のまちがいか

*2:貴人につかえてみのまわりのせわをするおんな

*3:原文は誹になっとった

*4:原文には闥谷岩屋になっとった

*5:自筆の像の意味がようわからん