本多忠次と旧本田忠次邸の説明がき

2018年11月25日、岡崎にある旧本多忠次邸を見学。たてもんないにある説明がきをよんでみた。

本多忠次と旧本田忠次邸
本多忠次(ほんだただつぐ)(1896~1999)は、徳川四天王のひとり本多忠勝(ほんだただかつ)(1548~1610)を始祖とする本多家の17代め忠敬(ただあつ)(1863~1920)の次男として、東京本郷森川町の旧岡崎藩邸にうまれました。ちちの忠敬はさいごの岡崎藩主となった忠直(ただなお)(1844~1880)の家督を相続し、中央では宮内省式部官、貴族院議員を歴任、岡崎では城址公園整備や教育振興の貢献により岡崎市名誉市民となっとる人物です。
〔忠直 → 忠敬 → 忠次〕
忠次は、学習院をへて当時の最先端の学問領域であった東京帝国大学文科大学哲学科にまなんだあたらしい世代でした。ほの忠次が36才のときに周到な調査や準備期間をへて、しきち選定から建築基本設計を自身でおこない、およそ1年の時間をかけて、自邸を完成させたのは1932年のことです。
1923年の関東大震災のあと、復興整備がすすむ東京で、世田谷野沢に広大なしきちを取得した忠次は、登山や植物採集などを趣味としとったことや、文化人のあいだでブームとなっとった田園趣味のえいきょうから、自邸の建築様式にスパニッシュ風をとりいれました。内部は中央に廊下をとおし、みなみがわにはおうせつまや家族がすごすいま、食堂など、きたがわではだいどころや女中べや、便所やなんど、浴室などを配しております。ほれまでのにほん家屋のつづきまスタイルから、家族のだんらんやプライバシーを重視する現代住宅のさきがけともいえる住宅を完成させたでした。
本邸は戦災にあうこともなく、終戦后のGHQ接収時代にGHQ最高司令官、ダグラス・マッカーサーの顧問弁護士のカーペンターが住居とした時期もありましたけど、忠次は103才でなくなるまで本邸をすまいとしました。
2018.11.25 (9) 本田忠次と旧本田忠次邸 1140-1520

いや~、廃藩置県で藩がなくなったあとも、さいごの藩主の忠直をついだ忠敬が、政府の要職についとったことにおどろくし、忠敬の次男である忠次が、東京帝国大学にまなんで東京に豪邸をたてたってことにもおどろく。

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あわせて、となりの本多忠勝家系図もかくにん。

本多忠勝家系図
1.忠勝(ただかつ)(大多喜、桑名) → 2.忠政(ただまさ)(桑名、姫路) → 3.政朝(まさとも) → 4.政勝(まさかつ)(大和郡山) → 5.政長(まさなが) → 6.忠国(ただくに)(村上) → 8.忠良(ただよし)(刈谷、古河) → 9.忠敞(ただひさ)(浜田) → 10.忠盈(ただみつ) → 11.忠粛(ただとし)(岡崎=13代岡崎藩主) → 12.忠典(ただつね) → 13.忠顕(ただあき) → 14.忠考(ただなか) → 15.忠民(ただもと)(京都所司代、老中) → 16.忠直(ただなお)(さいごの藩主) → 17.忠敬(ただあつ)(式部官、貴族院議員) → 18.忠昭(ただあき)、忠次(ただつぐ)
〔※ 11代忠粛から16代忠直までは岡崎藩主〕
〔※ 忠昭が忠敬のあとつぎで、忠次は忠敬の次男っていうだけ〕
2018.11.25 (8) 旧本田忠次邸 - 本多忠勝家系図 1120-1630