善恵坊のいしぶみ - あんじょう古戦場

2021.3.30 (19) あんじょう城 - 善恵坊のいしぶみ 1860-2480

あんじょう城は二の丸にあがっていくいしだんをあがりかけたとこに、善恵坊(ぜんえぼう)のいしぶみがある。あんじょう合戦のおり、ひとり奮戦して織田の鉄砲隊にうたれてなくなった善恵坊をとむらうためにたてられたいしぶみだ。

善恵坊の碑 - 安祥城址公園(あんしょうじょうしこうえん)

1544年、松平勢(まつだいらぜい)がまもる安祥城を織田方(おだがた)がせめたとき、ひとり敵中にうってでて奮戦した安城村(あんじょうむら)の荒法師善恵坊を供養した碑です。石碑には、「善恵坊は全身に鉄砲玉を受け、あたかも蜂の巣の様だ。敵を睨み、倒れずに立ったまま死んだ」とかかれております。

安城生涯学習まちづくり企画人

2021.3.30 (18) あんじょう城 - 善恵坊のいしぶみ 1600-1200

〔2021年3月30日訪問〕


七つ井 - あんじょう城

2021.3.30 (8-1) あんじょう七つ井 - 説明がきと梅井 1480-820

七つ井(ななつい)

  • 古来、西三河南部地方は、碧海郡(へっかいぐん)とよばれ、低湿地がおおかったので、ひとびとは良質の飲料水を必要とした。この地方に「井」のつく地名がおおくのこっとるのもこのためである。
  • 安祥城(あんしょうじょう)(あんじょう城のこと)2代城主、松平長親(まつだいらながちか)(1496~1506)は、連歌(れんが)や茶道(さどう)をこのみ、しろちかくのいどのなかからとくにきれいなわきみずのでるいどななつをえらんで七つ井となづけたという。
  • それからあんじょうの地を七つ井のさとともよぶようになった。
  • 七つ井とよばれるのは、つぎのななつのいどである。
    1. 筒井=横町(よこまち)
    2. 浅黄井=多宝坊(たほうぼう)
    3. 中井=赤塚(あかつか)
    4. 桜井=拝木(おがむぎ)
    5. 柳井=清水(しみず)
    6. 梅井=城堀(しろぼり)
    7. 風呂井=城堀(しろぼり)

2021.3.30 (8) あんじょう七つ井 - 説明がきと梅井 1600-1180

2021.3.30 (9) あんじょう七つ井 - 梅井 1600-1200
△ 七つ井の説明がきのしたに梅井

〔2021年3月30日訪問〕


東条塚 - あんじょう古戦場

2021.3.30 (5) 東条塚 - 説明がき 1600-1200

あんじょうし指定史跡

東条塚(とうじょうづか)

1961年10月ついたち指定

  • あんじょう城(あんじょうじょう)(安祥城(あんしょうじょう))をめぐる攻防戦の舞台となった古戦場のひとつです。1540年6月、尾張織田信秀(おだのぶひで)があんじょう城を攻撃しました。北方よりおしよせた織田信秀と、しろからくりだしてたたかったという松平軍がたたかった主戦場は、あんじょう城きた方面の城代松平長家(まつだいらながいえ)(安城左馬助(あんじょうさまのすけ))は、このいくさでおおくの家臣とともに戦死しました。
  • このいくさをふくめたいくどかの攻防戦の死者をとむらい、13のつかがきずかれました。この東条塚は、いくさの応援にかけつけた東条松平(西尾市吉良町)の康忠(やすただ)が戦死したばしょにきずかれたつかであるとつたえられております。

郷土の文化財をたいせつにしましょう

あんじょうし教育委員会

2021.3.30 (4) あんじょう古戦場 - 東条塚 1600-1200

〔2021年3月30日訪問〕


矢作橋のえきのふうけい - 2021年3月とおか

2021.3.10 (5) 矢作橋 - 東岡崎いきふつう 1940-1480

矢作橋は3番のりばに、東岡崎いきふつうのあっかい電車がはいってくる。

2021.3.10 (7) 矢作橋 - 豊橋いき快速特急 1990-1490

また、3番のりばを、豊橋いき快速特急パノラマスーパーがとおりすぎていく。

2021.3.10 (9) 矢作橋 - 岩倉いきふつう 1940-1490

こんどは2番のりばに、岩倉いきふつうのあっかい電車がはいってくる。


坂戸いきバス - 2021年3月とおか

2021.3.10 (4) 矢作橋駅前交差点 - 坂戸いきバス 1600-1200

矢作橋駅前交差点にあらわれた坂戸いきバス。こっから右折して国道1号線をひがしにつぎの矢作橋駅東交差点までいって、また右折してみなみにすすんで終点の坂戸バス停までいく。このバスがあるのは、平日、土休とも1日2本。