桶狭間古戦場にある『香川景樹のうた』のいしぶみ

あと問へば昔のときのこゑたてて
松に答ふる風のかなしさ
景樹

2020.9.21 (44) 桶狭間古戦場 - 香川景樹のうた 1500-1990

豊明は中京競馬場駅からすぐみなみに桶狭間古戦場があるだけど、ほの東北かどに『香川景樹のうた』のいしぶみがある。

2020.9.21 (45) 桶狭間古戦場 - 香川景樹のうた説明がき 2000-1500

あと問へば昔のときのこゑたてて
松に答ふる風のかなしさ
景樹

桂園派の巨匠、香川景樹(かがわかげき)がおのれの歌風を江戸にもひろめようといきごんで出府したが、むかえられず、失意をいだいての帰途、桶狭間をとおり、1560年5月19日、信長のためにこの地に没した義元のきもちをくみ、自身のこころにひきあててよんだ一首で、「尾張名所図会」にのっとる。

〔2020年9月21日訪問〕


『桶狭間古戦場』のかんばん

2020.9.21 (42) 桶狭間古戦場 - 説明がき 2500-1900

豊明の桶狭間古戦場に『桶狭間古戦場』のかんばんがある。

2020.9.21 (42-1) 桶狭間古戦場 - 説明がき 1270-590

桶狭間のたたかい~

戦国大名は戦乱のなかにあってたがいに全国統一をめざし、しのぎをけずっとった。相模の北条、越后の上杉、甲斐の武田、駿河遠江三河の今川、尾張の織田などなどが勢力をえて、つねに領土の拡大、天下支配の野望にもえとった。

今川義元は、およそ2万5,000人の軍勢をひきいて1560年5月12日に駿府(静岡)をしゅっぱつした。17日に岡崎へ、18日には沓掛城にはいり、尾張大攻撃の準備をした。織田信長は、5月19日未明清洲城出陣にさいし、幸若舞の敦盛をまい、馬上のひととなった。清洲をでるときは、主従わずかに6騎、とちゅうわのりをかけて人数をまち、熱田神宮に戦勝祈願をしたころは、1,000人あまりとなり、合戦のときには軍勢3,000人ほどになった。今川軍は、難なく丸根、鷲津をせめおとし、本陣は桶狭間のまつばやしに休憩して、戦況をききつつ昼食をとっとった。そのおり、天候が急変してゆうだちとなり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ケ根に待機しとった信長は一挙に本陣めがけてきりこんだ。信長の家臣服部小平太が、やりで義元をさし、毛利新助がうしろからくみついてくびをとった。

このたたかいの死者は、今川軍2,500人、織田軍830人ほどで、要した時間は2時間という一瞬のできごとであった。

桶狭七石表(おけはざましちせきひょう)*1

桶狭間古戦場がどこであったかは異説があるが、今川義元勢2万5千、織田信長勢3千がいりみだれてたたかったのであるから、その戦場はかなり広範囲にわたっとったとかんがえられる。ここで問題なのは、義元の本陣、もっとせまくいえば義元戦死のばしょがどこかということで、それはこの七石表によってその戦死のばしょをしることができる。

1号碑は今川義元戦死のばしょ、2号碑は松井宗信戦死のばしょである。3号碑以下は義元の武将5人の戦死のばしょであり、氏名不詳である。そのいしぶみは、花崗岩の石柱で方15から18センチ、たかさおよそ120センチで、30センチほど土中にうめられとる。

2020.9.21 (43) 桶狭間古戦場 - 説明がき『進軍経路』 1100-1150
2020.9.21 (43-1) 桶狭間古戦場 - 説明がき『進軍経路』 750-335

進軍経路もあって、わかりやすい。

〔2020年9月21日訪問〕


*1:原文は「狭」が「峡」になっとる

桶狭間古戦場あとのいしぶみと桶狭弔古碑

2020.9.21 (38) 桶狭間古戦場あとのいしぶみと桶狭弔古碑 2000-1500

豊明の桶狭間古戦場みなみがわに、きたむきに桶狭間古戦場あとのいしぶみと桶狭弔古碑がたっとる。

桶狭間古戦場あとのいしぶみ

にしがわにあるのが桶狭間古戦場あとのいしぶみで、きためんに「桶狭間古戦場趾|愛知県」、にしめんはなし、ひがしめんに「従二位男爵野邨素介書」、みなみめんに「大礼記*1|1915年11月|有松町建立」ってかいてある。

桶狭弔古碑

2020.9.21 (39) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑(おもて) 1500-2000
2020.9.21 (39-1) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑(おもて) 930-2080

ひがしがわにあるのが桶狭弔古碑。おもてめんに全面碑文。

2020.9.21 (40) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑(うら) 2000-1500
2020.9.21 (40-1) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑(うら) 1780-1040

うらめんはしたのほうだけに文字。

2020.9.21 (41) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑説明がき 2000-1940

桶狭弔古碑の説明がきをよんでみる。

弔古碑

1809年5月、津島の神官、氷室豊永*2がたてたもの、いしぶみのおもてめんは「桶狭間のたたかい」を回顧する文と往時をしのぶ詩、うらめんには建碑の趣旨がほられとる。

文章は尾張藩儒学者秦鼎(号は滄浪、字は士鉉)、碑面の文字は尾張藩の大坂用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。

石工河内屋孫右衛門のてにより刻されたものである。

豊明市教育委員会

「桶狭弔古碑」現代文意訳(抜粋)

碑文1行~2行め

1560年駿河今川義元公がにしへと軍をすすめ、5月19日桶狭間のやまのきたに陣をひいた。織田信長公は、奇兵をもって、これをおそい義元公はほろんだという。

碑文3行~5行め

今川義元は大軍をひきいて尾張に侵入、鷲津、丸根のとりでをせめて陥落させ『あす、朝食するころには清須城はとれとるであろう』と豪語した。家臣たちはみな勝利を祝賀し、陣中でいわいざけがだされた。そのとき、西北よりくろくもがわきおこり暴風となった。

織田軍がせめこむ振動音と鬨(とき)のこえがせなかのほうからきこえたが、だれもとつぜんおそわれるとはおもっておらず、本陣は大混乱となり、格闘するが2,500人の死者がでた。

解釈

  1. 本陣のばしょを桶狭間山のきたの陣」と明記してある。桶狭間山は石塚山ともいわれ、現在KKホシザキ本社
  2. たたかいは「奇兵をもって」ときしゅうせんを明記してある。
  3. 碑文は、ただひとつのこる敗者がわの文で真実にちかい。
  4. このいしぶみを建立するばしょ、碑文については、尾張藩のゆるしをえてたてられた、尾張藩の正論である

〔2020年9月21日訪問〕


*1:大正天皇即位記念

*2:原文は豊長

今川義元のはか

2020.9.21 (36) 桶狭間古戦場 - 今川義元のはか 2000-1500

豊明の桶狭間古戦場に今川義元のはかがある。はかいしに「今川治部大輔義元墓」の文字。

2020.9.21 (37) 桶狭間古戦場 - 今川義元のはか説明がき 1990-1500

今川治部大輔義元(いまがわじぶだゆうよしもと)のはか

駿河遠江三河の国主、今川義元は西上の途次、1560年5月19日に織田信長のきしゅうにあい、ここでたおれた。ここには、その霊がまつられとる。

以前、ここはつかであったが有松の住人山口正義が主唱し、1876年5月に、このはかをたてた。

豊明市教育委員会

〔2020年9月21日訪問〕


桶狭間古戦場の『七石表』

2020.9.21 (34) 桶狭間古戦場 - 『七石表』 1500-2000

豊明の桶狭間古戦場に『七石表』がある。

2020.9.21 (35) 桶狭間古戦場 - 『七石表』説明がき 2000-1500

七石表(1号碑)

桶狭間のたたかいで今川義元の戦死したばしょをしめす、もっともふるいものである。

1771年尾張藩士人見弥右衛門黍(あつし)、赤林孫七郎信之によりたてられた。

きためん「今川上総介義元戦死所」、ひがしめん「桶峡七石表之一」、みなみめん「1771年辛卯12月18日造」ときざまれとる。

豊明市教育委員会

2020.9.21 (35-1) 桶狭間古戦場 - 『七石表』説明がき 1060-1280

「桶狭七石表」

  1. 1628年(戦后68年后)、斉藤徳元がかいた『関東下向道記』に江戸へむかう道中、「有松をでてみちより馬手(みなみ)にあたりてこだかき古塚あり・・・(中略)・・・義基(義元)たたかひまけてここにてはてたまひし古墳なり」とある。
  2. 1705年、天野信景がかいた『塩尻』のなかにえがかれとる、「桶狭間古戦場之図」の中央付近にななつのつかがえがかれとる。
  3. 1771年、人見弥右衛門黍がかいた『遊桶狭記』に「そのころの田楽狭間の古戦場はくらくさびしいところで、帰名后友人と相談し、古戦場にあるつかのうえに、石柱(七石表)をつくらせた」とある。

とよあけ桶狭間ガイドボランティア
豊明市観光協会
0562-92-8312

〔2020年9月21日訪問〕


『桶狭間古戦場』の説明がき

2020.9.21 (33) 桶狭間古戦場 - 『古戦場』 1940-1490

豊明は中京競馬場駅からすぐみなみに桶狭間古戦場があるだけど、ほの西北かどに『古戦場』の説明がきがあって、つぎのようにかいてある。

2020.9.21 (33-1) 桶狭間古戦場 - 『古戦場』 1140-950

古戦場

この地は、1560年5月19日、今川義元織田信長におそわれ戦死したところとつたえられ、田楽狭間、あるいは舘狭間とよばれた。

今川義元、松井宗信、無名のひとびとのつかがあり、1771年、七石表がたてられた。1809年には桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者をとむらってたてられた、おばけ地蔵、徳本行者念仏碑などがある。

1937年12月21日

くに指定史跡

豊明市教育委員会

〔2020年9月21日訪問〕


『桶狭間古戦場伝説地』のかんばん

2020.9.21 (31) 中京競馬場前みなみぐち - 『桶狭間古戦場伝説地』 2000-1500

名鉄名古屋本線中京競馬場前駅みなみぐちに『桶狭間古戦場伝説地』のかんばんがあって、つぎのようにかいてある。

2020.9.21 (31-1) 中京競馬場前みなみぐち - 『桶狭間古戦場伝説地』 1750-1090

くに指定史跡

桶狭間古戦場伝説地

桶狭間のたたかい

天下わけめといわれた関ヶ原のたたかい(1600年)からさかのぼること40年。にほんぢゅうが戦国大名うしのたたかいにあけくれとった1560年尾張(現在の愛知県西部)において、にほんの歴史にそのなをのこすたたかいがおきた。桶狭間のたたかい」である。たたかったのは、当時、駿河遠江(現在の静岡県)で強大な勢力をほこっとった今川義元と、尾張を統一したばかりの小大名織田信長。ちからの差は歴然であった。しかし、大軍をひきいて尾張に侵攻した今川義元にたいし、織田信長はみずから先頭にたって出陣し、「桶狭間」で義元をうちやぶり、歴史的な勝利をかざった。そのあと、織田信長は東海、北陸、近畿へと勢力を拡大し、豊臣秀吉の天下統一、徳川家康江戸幕府へつながるいしづえをきずいた。

桶狭間古戦場まつり

6月第1どようび、にちようび開催(ほんまつりはにちようびのみ)

桶狭間のたたかいで戦死したひとたちの霊をなぐさめるおまつり。墓前祭、霊前祭、供養祭のほか、てづくりのよろい、かぶとにみをつつんだ武者たちによる武者行列桶狭間再現劇がおこなわれます。

桶狭間古戦場伝説地

1937年にくにの史跡指定をうけた。今川義元墓碑(1876年)、七石表(1771年)、弔古碑(1809年)などがある。(くに指定史跡)

今川義元墓碑

1876年、有松のひと、山口正義が建立した今川義元の墓碑。自然石に「今川治部大輔義元墓」ときざまれとる。まいとし6月、墓前祭がおこなわれる。

七石表、1号碑

1771年、尾張藩の人見弥右衛門黍(勘定奉行)、赤林孫七郎信之(小納戸役)が建立。今川義元と家臣の松井宗信ら計7基のつかのよこにたてられた。

高徳院

1893年高野山よりてらのなをおいうけて建立された真言宗寺院。まいとし6月の桶狭間古戦場まつりでは主会場となる。また、住職を導師として霊前祭がおこなわれる。

戦人塚

曹源寺住職らが桶狭間のたたかいの戦死者をあつめてほうむったつか。つかのうえの石碑は、1739年、今川義元の180回忌のさいにたてられたものとつたえられとる。(くに指定史跡)

曹源寺

1505年、実田以耘が開創。桶狭間のたたかい后、住職が戦死者を戦人塚に、今川義元と武将を位牌堂にまつって供養した。知多四国巡礼の一番札所でもある。

阿野一里塚

1604年、家康が永井白元、本田光重に命じて街道のりょうがわにきずかせた街道のみちしるべで、りょうがわに一里ごとに設置された5間四方のどもりづか。

沓掛城址

桶狭間のたたかいのまえに、今川義元が着陣したといわれる。たたかいのあと、織田信長は家臣築田出羽守にあたえた。そのあと、織田玄蕃、川口久助とかわり1600年ごろに廃城とかんがえられる。

◇            ◇

桶狭間古戦場伝説地のばしょは、えきからみなみにちょこっといったとこ。

〔2020年9月21日訪問〕