東端城あとのいしぶみ - 2020年1月にじゅうよっか

2020年1月にじゅうよっか、東端城あとを訪問。説明がきのいしぶみをかくにん。

東端城あとのいしぶみ

2020.1.24 (2) 東端城あと - いしぶみ 2000-1500
東端城と城主永井伝八郎直勝
東端城は1580年、大浜郷にて羽城の司令をつとめる長田久右衛門重元の長子長田尚勝(おさだひさかつ)がきずいた。しろの構造は居城館から郭内城へうつりかわる過程にある代表的な城郭であった。蓬左文庫(ほうさぶんこ)蔵の「東端城えず」にみる東端城のすがたは連郭構造の大規模なつくりであったようにえがかれておる。東端城が歴史のおもて舞台にでるのは尚勝のおとうと直勝(なおかつ)によってである。直勝は13才のときに家康の長男松平信康につかえたが、1579年に信康が自刃すると大浜へかえり蟄居(ちっきょ)しておった。しかしそのご18才のときには家康につかえるようになり、禄30貫をたまわった。このとき姓を長田から永井にあらため永井伝八郎直勝とした。1584年、直勝22才のとき、ういじんとして小牧長久手のたたかいに出陣した。ここでかれは、敵将池田勝入斎恒興のくびをとる大殊勲をたてた。これにより東端村1,000石の地をたまわり、あに尚勝にかわって東端城主となった。そのご関ヶ原のたたかいでも戦功をあげ、従来の領地に城ケ入村(じょうがりむら)、高取村(たかとりむら)をあわせて4,050石、さらに上総(かずさ)のくに、近江(おうみ)のくにで6,000石、合計10,050石となった。
さらに大阪なつの陣では、豊臣秀頼切腹みとどけの大役をつとめた。この功績でこれまでの領地をあらため、上野(こうずけ)のくに小幡で10,000石、近江のくにで2,000石、笠間(かさま)近在で20,000石、合計32,000石を領有し常陸(ひたち)のくに笠間城主となった。このとき東端城をはなれ、以后このしろは廃城となる。直勝はそのごも業績をあげ、1619年に常陸のくに新治郡(にいばりぐん)柿岡、土浦両所にて20,000石、さらに1622年にはあらたに下総(しもうさ)国内で20,000石をくわえ、合計72,000石を領し、下総のくに古河城主となった。そのかん直勝は江戸にて評定所の奉行をつとめたが、1625年、63才で没した。

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築造が1580年。はなから松平勢力の支店としてきずかれとる。城主はすぐにあに永井伝八郎直勝に交代。直勝は有能で、のちに転じて笠間城主、古河城主になっとる。これにともなって東端城は廃城になる。

あんじょうし教育委員会の説明かんばん

2020.1.24 (5) 東端城あと - 説明がき 1520-1140
あんじょうし指定史跡 - 東端城址
1963年10月ついたち指定
1580年、長田尚勝がこのしろをきずき、1584年ごろ、尚勝のおとうと永井伝八郎直勝の居城となりました。しろの構造も、居城館から郭内城へ移行する時期の代表的な城郭といわれております。
1615年、直勝が常陸のくに笠間に転じたため廃城になりました。
郷土の文化財を大切にしましょう。
あんじょうし教育委員会

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廃城になったのは1615年。35年間のしろだった。